<報告>12月6日まなびカフェ「【かぞくのかたち】セクシュアルマイノリティのパートナーシップと子育て」

2018年12月6日(木曜日)まなびカフェ
【かぞくのかたち】セクシュアルマイノリティのパートナーシップと子育て
ゲスト:西山ちづるさん(QWRC: Queer and Women’s Resource Center)

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わたしがこんかい聴かせてもらったのは、
セクシュアルマイノリティのパートナーシップと子育て「についての話」と、同じくらい、
という切り口からの、西山ちづるさんのパートナーシップと子育ての話」でもあったと感じる。
(きっと、だからこそ、自分自身のパートナーシップや子育てのことも、
ふつふつ、ふり返ったりことばにしてみたり、続いてる。)

「LGBT」と「SOGI」という、ふたつのことばづかいのこと

LGBT」は、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーの頭文字をとったもの。
「人」をあらわすことば。
だから、「LGBT」ということばを使うと、たとえば「そういう人もいるんやな」と人の存在を可視化できたり、
「Lの人お茶会やるから来てね」って人に呼びかけて集まったりできる。
だけども、「LGBT」ということばは、マイノリティの側にいる人たちが、
まるでそちらにだけ語るべき特徴があるかのように、語る責任を負わされる、という状況をつくりがちでもある。
(それは結局すでにある「スタンダード」を強化するということでもある。)
ことばのほうが一人歩きして、人を乱暴にくくってしまうこともある。
反対に、くくりきれないからこそ、あてはまらない人を常にうみだしもする。

SOGI」は、Sexual Orientation(自分はどういう人を好きになるのか)と
Gender Identity(自分はどういう性として生きていきたいか)の略。
人のなかにある「事柄」をさしていることば。
だから、「SOGI」ということばは、数の大小を問わず、誰もがかかわりをもてる。

だけども、「SOGI」は、抽象的だし、誰もが一人ひとり異なる中味をもつことばなので、
「LGBTの人はこういうことで困っているんです」というような使い方はできず、
結局どこに困りがあるのかなど、焦点をあてたい時の使い勝手はよくない。
「どちらが正しい、ということではなく、文脈に合わせて使い分けたり同時に広まっていったりするのが理想ではないかな」
という西山さんの提案を、わたしはとてもたいせつに思った。
ああそうだ、ことばは、「目標」とかのとこに掲げて飾っとくんじゃなく、
自分たちの暮らしのなかで、暮らしのために、ばんばんつかってみることができるものだよなあって。

西山さんが所属してはるサークル、「にじいろかぞく」の話から考える、「家族」のこと

西山さんは、「にじいろかぞくには、さまざまなかたちの家族の参加がある」と
そのいくつかのかたちを紹介してくださった。
こうした話が、「セクシュアルマイノリティの人でも子どもがおる『家族』をちゃんとつくって、ハッピーになれる」
という宣伝として聞かれないために、
「家族」ということばをつかうことに注意深さがいるってことと合わせて。

「家族」ということばを素通りできないのは、
この社会で「家族」とは「子がおり、その親がいて、一緒に住んでいるユニット」
として認識されることが多いけど、ここではもっと広げた意味でつかっているから。
(たとえばともだちどうしの「家族」、猫とわたしの「家族」等々。)
そしてまた、この社会で「家族」は「ハッピー」に繋げて認識されることが多いけれども、
もちろんハッピーなことだけではなく困ったこともあるものだし、その困ったことがあったときに、
より困りやすい立場にいるのがマイノリティやその家族だってことが現にあるから。

個人が気づくかどうかにかかわらず、
この社会にすでにある「家族ってこういうもの」という規範が、
「『家族』として扱われたいのに、『家族』とは扱われない」という人たちと、
「『家族』として扱われたくないのに、『家族』と扱われてしまう」という人たちを、両端からはじき落としてる。
(たとえば前者としては同性パートナーの家族、後者としてはDV被害者と加害者の関係等々。)

落ちたり落としたりしないために、耕している/いけるところも、少しずつ増えてる。
西山さんからご紹介いただいた、日本語でも読める何冊もの「多様な家族に出会える絵本」を眺めながら、そう思った。
(ひとつだけでも挙げておくと、『いろいろ いろんな かぞくの ほん』は、
かたちだけでなく状況もいろいろな家族を描いていて、おすすめとのこと。箕面市立図書館ももってるよ。)

そして西山さんの、子育てをめぐる日常のこと

いま5歳の西山さんが出産なさったお子さん、の子育てをめぐって、
「(今のところ)困ってない事」と「今後困るかもしれない事」。
前者の、「困ってない事」のエピソードを聴きながら、
「困ってない」ということも「葛藤いらず」ということではない、と気づいた。
たとえば保育園でのパートナーさんの呼ばれ方が、はじめ「ご友人の方」や「ご家族の方」でどうしようと思ってはったこと。
(園はのちに、お子さんからパートナーさんへの呼称に合わせてくれはったとのこと。)
職場での、やっぱりどうしても気を遣うところのある産休・育休申請にあたり、
家族構成についてなどどこまで話すか「戦略」を練りはったこと。

「困ってない」に至る「今の所」までをつみかさねてこられた西山さんを尊敬するとともに、
葛藤や戦略が暮らしのなかで要請される場面は、総量も減らしたいし、偏りもちっさくしていきたいなあーと改めて思う。
後者の「今後困るかもしれない事」は、
子どもの生活をみてもらう保育園とは異なる「学校」というものとの未知な関係、
その「学校」は「子どもがマイノリティ」については考えていても「親がマイノリティ」は想定していなさそうなこと、
緊急時等に証明できるような、たとえばパートナーさんと子どもの繋がりが書類上には無いこと、
相続などの問題、別離の場合子がどちらについていくかを本当に自由に選べるだろうか、など。

「この『困るかもしれない事』は、心の片隅にあるんです。片隅なんですけど、まあ結構重くあるんですよね」
と、西山さんは言った。
パートナーシップ制度は、今のところこうした「困るかもしれなさ」をなんとかしていけるほど確たるシステムではない。
手続きの煩雑さや、自治体首長の方針に左右されるという不安定さなどの問題もある。
それでも、パートナーシップ制度があることで、
たとえば採用した自治体では少なくとも役所窓口の人をはじめとして、
これまで見えていなかった人や事柄を認識するひとがきっと増えていく。
こうした制度と認識の関係を、「鶏が先か卵が先か」と西山さんは喩えた。

お子さんに対して西山さんとパートナーさんの関係を「説明」するのは、
子ども自身が理解して、誰に話し誰に話さないかを選択できるようになってからにしようと思っている、
という話を西山さんはされていた。

わたしには、手元のメモをみながら、いくつか、ここに書くかどうかを迷った事柄があった。
書くこと、表現することやその仕方が、選択肢を減らす結果につながってしまうこともあることにひるんだのだった。
今回についていえば、わたしは、それぞれ書いてよいかどうかを相談し、
答えをもらうことができる。でも、だから、まだ自分で迷っていようと思う。
報告は、これでおしまい。読んでくれたひと、ありがとう。

文・まなびカフェブロガー behさん

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2018年12月13日(木曜日)19時から20時30分
『~Le Salon des Millman ちょっといかした絵のおはなし~
西と東のいったりきたり』
日本の浮世絵はどんな風にヨーロッパに伝わり、西洋の芸術家に影響を与えたのでしょうか?
ゴッホやゴーギャン、モネやマネの絵をもとにミルマン夫妻の視点から
その隠されたストーリーを聞くと、ふだん絵になじみのない方も思わずわくわくしてしまうこと間違いなし。
「芸術って少し難しそうで・・・」という方にもおすすめです。
*同時通訳がつくので、英語が苦手な方もご安心ください。
場所:らいとぴあ21 1階展示コーナー
ゲスト:イアン・ミルマンさん(パリ在住・美術研究家) 
    ミチコ・ミルマンさん(英語通訳)

◆らいとぴあ21「まなびカフェ」とは?
世の中のいろいろや最近ちょっと気になることを、少人数制でアットホームにまなび、考える「まなびカフェ」。各回の素敵なゲストの話を聞いて、みんなでわいわい意見をかわすといつも見ている世界が少し違って見えるかもしれません。普段は逢えないいろんな人、いろんな世界をのぞくことで、インターネットやテレビ、新聞などでは味わえない生きた”まなび”を楽しむ場です。スケジュールや各回詳細はまなびカフェイベントページ(Facebook)や、らいとぴあ21のブログに掲載のチラシPDFデータをご覧ください。

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